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学会とは何か?研究者は何をするべきか?

私の中で、学会の役割が揺らぎ始めている。なぜなら、Powerを持つ省の太鼓持ちのような学会も増えてきたことと、権威ある(長年よい論文を発表されてきた)研究者が、さして、国内外の研究成果はあまり引用せずに、海外文献のみでCriticalな意見を述べる。あきらかに間違った引用も含まれている、専門に関しては、一流の文献をだしていても、人間はいつもいつもそうではない。まして専門分野でなければ、あまり読んでないのであろう。現場に足を運んでいないのであろう。または、自分では実践をしたことがないのであろう。また、現在の各国の英語教育はその国のトップダウン的な政策と密接な関係があり、学校教育そのものが、「大失敗」をしている国がでてきている。そういった国では、クラスでは、もはや英語指導どころではない。日本の学校の秩序が当たり前だと思っている我々日本の先生には信じられない光景が、繰り広げられているケースもある。選挙のマニフェストに教育をかりてくる国々に多い失敗である。SLAの1面から見るのでなく、国それぞれの教育政策(成功と失敗)を把握してから引用することも重要だ。

 

状況のミス把握もあって、問題の核心から離れていく。権威ある研究者が、批判的意見を述べると、当然、初めて学会に来た方は、有難く、そうなんだ・・・と聞くことになる。そこにミスリーディングがあれば、責任は重大である。

 

私にとって、学会は私は少なくとも、権威があるもの、初心のもの、両方が等しく、データや理論に基づいて、意見を述べ議論できるところだと思っていた。しかし、近年それが揺らいでいる。

そもそも学会とは何であろうか?

1.研究者同士のつながり、社会的相互作用の維持
2.研究知見を実務への普及促進
3.ピアレビューを通した論文査読と成果公開

わたしは、特に2番をやっていきたいと思っている。
 研究者同士ボランティアベースで活動。一連の活動を通して、「公共性に資すること」が、学会の社会的役割なのかな、とも思う。ただ、これらに「陰り」が見え始めている。意味を見いだせない人が増えて、学会を去ることを選択する人が増えているとのこと。もちろん、研究をやめるわけではない。学会に来るのをやめる人がでる。ご存じのように、科学・学術に対する国の予算は、ここ10年で大幅に削減。学会も自腹になって研究者も現職も大変である。10年前に比べれば単純に5分の1に激減。わたしもまた教職大学院に移り、英語やグローバル以外の院生を担当するので、一つの学会に皆さんを連れて、かつてのように、院生時代から発表を経験してもらうということが出来なくなっている。

 

学会では基調講演や、シンポジウムが開かれる。そこではかつては、クリティカルな意見が交わされることがあった。しかし、反駁を好まない昨今の日本において。議論は減り、ご意見番のような意見が述べられる。気骨のある研究者はもはやシンポにはいない。

 

小中の英語に関していえば、それぞれの単元やレッスンで、きまりきったセンテンスを3往復むりやりアウトプットさせても、なんら習得にはつながらない。そんなことは言語学の研究者なら皆が知っていることである。言葉の習得はそれほど単純でなく、インプットに様々な場面で触れては、慣れていき、まだ発話に至らずとも、生徒は聞ける言葉を増やしていき、慣れていくと気づきも起こりやすい。さらに思考が伴う意味のあるやりとりなら、取り込みは深い。アウトプットは習得の結果でしかなく、アウトプットできたかだけを強要するというのは性急である。しかしアウトプットしたくなる瞬間とは、生徒に「心底情動が動く」という場面である。しかし。もう、取り込み(Intake)待たずに、きまりきったパターンのスモールトークで、無理やりアウトプットさせよという。

 

世界の英語教育を、自費をはたいて30代から見て歩き、各国の先生にインタビューをしてきて、このようにたった70時間ほどの英語で、小学生に発話を強要している国を、わたしは見たことが無い。ないことは無いが、言語指導の方法をまるで学んでいない先生にたまにそういうことがあった。

 

今日本が、全員それを信じて前に進むのだろうか。おかしい、子供はそんなんじゃない。もっと意味のあるやりとりをゆっくりやりたい。文字指導だって、音からゆっくり時間をかけて、読めるようにしていきたい。

 

そう思っている先生に帰りのバスで数名、出会った。わたしは~~思うんやけど。ちがうんかなあ。

 

ええ、もうその通り。そんな勘の良い先生を、「わたし間違っているやろか」と不安にさせるほど、無理くりなアウトプットと書き写すがまかり通って大丈夫なのだろうか。

 

どうも日本の言語習得は、世界とは逆の方向に進みそうです。残念です。EFLだから海外の様には行かないという・・・本当にそうですか? だからといって逆を行きますか? エビデンスも無いのに。

大きな原因としては、現職教員も海外や国内の他の学校に、ある程度何度もいって教育を見るという機会がなく、大学に至っても俯瞰的に世界をみるほど時間をいただけていないことも大きいのだろうと思う。省内のかたもなかなか省内から出れずに状況は同じであろう。また、英語で書かれた文献を複合的に読み、日本の文献とも比較して自分の頭で、日本の子どどもにより良い方法を考えるという作業が、出来ていない。外国からの借り物の理論(これをスルーでなく)も参照しながら、目の前の生徒でエビデンスを見ていき、日本の生徒にあわさた方法を改善していくことが、学会の役割ではないのだろうか。

 

世界はもう、教員の自律性を育てようとしない、管理的な日本の教育のありかたに警鐘をならして心配してくれているのだけれど。それが今、本来、学問の自由があるはずの学会に及ぶ。